『「邪馬台国」論争は終わった』書評
(河村日下著、ミネルヴァ書房刊)

────「邪馬壹国」の勝利だが、邪馬壹国は大和国────

 著者は「南」を「東」に改訂するのが畿内説の特徴であり、畿内説は崩壊したという。しかし、「南」を「東」に改定する畿内説が、邪馬台国が大和国にあったとする説のすべてではない。魏志倭人伝が「南」と書いてあることを認めた上で、「南」を「東」に改定しないで、邪馬台国が大和国にあったとする説もある。魏の使節が邪馬台国が東に在ると知りながら、故意に「南」と書いたとする説(書籍『倭の邪馬台国』の説であり、以下A説とする)なので、中国人が日本に上陸した途端、方位を誤ったことにはならない。なので、九州説の勝利は確定してなどいない。
 そのA説は、魏志倭人伝の正文が、
「邪馬臺国」ではなく、「邪馬壹国」であること、
「対馬国」ではなく、「対海国」であること、
「一支国」ではなく、「一大国」であること、
「会稽東冶」ではなく、「会稽東治」であること、
を認めた上で、「邪馬壹国」が大和国であったことを証明している。

 以下、A説の立場から、著者が「比類なき論証」とする古田武彦氏の説に則った著者の主張を見てみよう。

(一)
 著者は、「邪馬台国」による魏への遣使と魏使の来日は、両国の利害が一致したことによっている。魏使来日は、「邪馬台国」の要請に応えたためだ。来日を要請していながら、「女王の都する所」-「邪馬台国」に足を運ばなかったということはありえないばかりか、外交上礼を失することになる(17頁)と言う。
 しかし、記紀の解釈を踏まえた魏志倭人伝の解釈によると、張政の来日は魏側の都合によるものであり、倭国にとっては迷惑だった。その魏側の都合とは倭国を対呉国の作戦で利用したいというものであり、狗奴国との戦いは、倭国側が魏の要求をお断りするための口実にしか過ぎなかった。

(二)
 著者は、「魏志倭人伝」に書かれている内容は、『記紀』と違って信用できる(44頁)という。
 しかし、A説によれば、記紀は真実の歴史を隠したが、真実の歴史を見出す手掛かりも残していて、その手掛かりを用いて適切に解釈すれば、史実を復元できるという結果になっている。

(三)
 古田説は長里(一里435メートル)ではなく、短里(一里75メートル)を採るが、A説によれば、長里により、魏志倭人伝がすべて自然に解釈できる結果が得られている。
 著者が短里だとする理由を見てみよう。

 (三-1)
 著者は、50頁で、渤海の太守・袁紹が、二〇〇(初平五)年冬十月、曹操との戦いに備えるために、穀物を輸送車で運搬する模様を記した三国志の記事を掲げる。
 
「冬十月、紹遣車運穀、使淳于瓊等五人將兵萬餘人送之、宿紹營北四十里。」
〈魏志一・武帝紀〉

 著者は、この「四十里」が現代の長里・一里四三五mであれば、袁紹は一万余人の兵士で守らせた大切な穀物を積んだ輸送車を、自らの陣営から一七・四kmも離れたところで野営させたことになる。敵である曹操軍の急襲を受ければ、どうなるか。これほど離れていては、とてもではないが、輸送車を守ることはできない(51頁)と言う。
 その通りであって守ることはできない。そのような位置に在ったのは、輸送車が袁紹の陣営に向かう途中だったからだ。自らの陣営に向かう途中、陣営から一七・四km離れたところに至り、宿営した。その位置が曹操側に漏れたため、曹操軍の急襲を受けて敗れた。
 これに対し、短里であれば、三km程度の距離となるので、袁紹は救援に駆けつけることができて、負けることも無かっただろう。

 (三-2)
 著者は、53頁で、楚建国譚とも言える三国志の記事を掲げる。

瑜曰く「昔、楚国初め荊山の側に封ぜらる。百里の地にも満たず」…。
瑜曰「昔楚國初封於荊山之側。不滿百里之地」…。
〈呉志九・周瑜伝〉

 著者は、周鍮の引いた故事では、楚国は初めは百里の地にも満たなかった小国だったという。この百里はどうか。……。長里四三・五kmは、JR東海道線・京都-大阪間四二・八kmにほぼ相当する距離である。……。"四三・五km×四三・五kmもの面積"では、とても"小国"とは言えないのではないだろうか(53~54頁)と言う。
 しかし、"四三・五km×四三・五kmもの面積"は、日本の一つの県ほどの面積である。日本の県は中国にとっては小国である。

 (三-3)
 著者は、55頁に、赤壁の戦いで呉水軍が火船を曹操の水軍に突撃させる場面の三国志原文を掲げる。

時東南風急。…中江挙帆。…去北岸二里余、同時発火、火烈風猛、往船如箭。

 二里が短里だとすれば、北岸の曹操軍から二里、すなわち150mほど離れた距離の所で船を発火させることになる。すると、赤壁付近での長江の川幅が400~500mなので、ぴったりするというのだ。
 しかし、私の調べた所では、原文は、

時東南風急。…中江挙帆。…去北二里余、同時発火、火烈風猛、往船如箭。
〈呉志九・周瑜伝〉

となっている。
 「去北軍二里餘、同時發火、」は、「北に軍を去ること二里余り、同時に発火し、」ということである。すなわち「北」が動詞「去」の間接目的語、「軍」が「去」の直接目的語と解せる。すると、軍は北岸の曹操軍ではなく、南の呉軍のこととなり、南の呉の本軍から北へ去ること二里余り離れたところで、同時に発火したことを意味するので、長里で二里、すなわち870mで問題無い。

 (三-4)
 著者は、56頁で、梅成が陳蘭に加勢し、魏の張遼の攻撃に備えるために、天柱山に砦を築いたという三国志の記事を掲げる。

成、遂に其の衆を将い、蘭に就き、転じて潜山に入る。潜中、天柱山有り、高峻二十余里。道は険しく狭く、歩径裁に通ず。蘭等、其の上に壁す。
成遂将二其衆、就蘭、転入潜山。潜中有天柱山、高峻二十余里。道険狭、歩径裁通。蘭等壁其上。
〈魏志十七・張遼伝〉

 著者は、「二十余里」を登山道の長さではなく、短里での山の高さだとする。そして、仮に、天柱山への登山口が一カ所しかなかったとしても、そこで、その地名や登山口名の確認を怠ったとは思われない。このような地名についての表記態度に鑑みれば、陳寿が天柱山への登山口を特定もしないで、ただ「二十余里の道」と、曖昧な形で書き放つだろうか(57頁)という。
 確かに、実際に天柱山へ登山する軍は、地名や登山口名の確認を怠ったとは思われない。しかし、史書の著者である陳寿は書物編纂の過程で省略することができる。
 著者は、「高峻」を"高く峻しい"と解釈すれば、「道険狭」(道は険しく狭く)と重なってしまうことになる。山が険しいということは、その登山道が険しいことと同義である(58頁)という。しかし、山が高く険しくても整備されている登山道もあるので、同義では無い。

(四)
 著者は、魏使は女王の都する邪馬壹国へ、実際に訪れている。この事実に基づいて、「魏志倭人伝」は著されている。「正始元年、太守弓遵、建中校尉梯儁等を遣はし、詔書・印綬を奉じて、倭国に詣り、倭王に拝仮し、…」の記事の示しているとおりだ。実際に訪れているから、倭王にも「拝仮」(面会)しているのである(59頁)と言う。
 しかし、拝仮するとは任命するということであり、倭王に任命するには詔書を渡せば済むことであり、必ずしも、倭王に面接する必要は無い。詔書、印綬、金帛等を倭国に渡すのも、倭国内で、倭国の相応の役人に渡せば、帯方郡使の役目は済む。

(五)
 著者は、「行」が実地に「行く」ことを示すことを指摘した上で、「東行至不弥国(東行不弥国に至る)」の記事では、動詞の行字が示しているように、魏使は伊都国から東の不弥国へ移動しているのである(61頁)という。
 しかし、「行」が実地に「行く」ことを示していても、「行」を仮定法のための動詞として用いることを禁じるルールなど無い。「東行至不弥国」も、東に行けば、不弥国に至ると解することができる。
 魏志倭人伝には次の記述もある。

去女王四千餘里、又有裸國、黑齒國復在其東南、船行一年可至。

 「船行」すれば一年で、裸国や黒歯国に至るという。魏の使節は裸國、黑齒國にも行ったのだろうか。とても行ったとは思えない。ここでは明らかに「行」という動詞は仮定法として使われている。

(六)
 著者は、62~63頁に、次の表を掲げる。

 ① 従…至倭 (倭に至る)
 ② 度…至対海国(対海国に至る)
 ③ 渡…至一大国(一大国に至る)
 ④ 渡…至末盧国(末盧国に至る)
 ⑤ 渡…至伊都国(伊都国に至る)
 ⑥ 〈ナシ〉…至奴国(奴国に至る)
 ⑦ 行…至不弥国(不弥国に至る)
 ⑧ 〈ナシ〉…至投馬国(投馬国に至る)
 ⑨ 〈ナシ〉…至邪馬壹国(邪馬壹国に至る)

 著者は、魏志倭人伝の(1)から(9)の行路記事の中、(6)(8)(9)には、先行動詞が見えないとする(62~63頁)。しかし、A説によれば、(6)(8)(9)を含むすべての行路記事に先行動詞が存在するとすることができる。

(七)
 著者は、66頁で、次の表を掲げる。

(1)七〇〇〇余里(帯方郡治-狗邪韓国)
(2)一〇〇〇余里(狗邪韓国-対海国)
(3)一〇〇〇余里(対海国-一大国)
(4)一〇〇〇余里(一大国-末盧国)
(5)五〇〇里(末盧国-伊都国)
(6)一〇〇里(伊都国-不弥国)

 著者は、陳寿のこの記述から、古田は、「伊都国-不弥国」間の一〇〇里は、「末盧国-伊都国」間の五分の一であり、短里では約七・五km前後でしかない。そうなると「不弥国-邪馬壹国」間は、当然一〇〇里以下となる。このように考えると、両国はピッタリと相接していることになる。つまり、「不弥国-邪馬壹国」間の距離は、「0」。言い換えれば、不弥国は、邪馬壹国に接したその玄関ということになる。これが、氏の主張する「最終行程0の論理」である(66頁)という。
 要するに、(1)から(6)へと距離が漸減しているので、その後に続く「不弥国-邪馬壹国」も「(6)一〇〇里」以下であるということだ。しかし、史書の記述で、今まで漸減しているからその後も必ず漸減するなどという法則は無い。むしろ、不弥国の後に、「水行二十日」「水行十日陸行一月」という記述が続くので、増大すると考えるのが自然だ。

(八)
 著者は、67頁で、次のことを指摘する。

(1)「南を東に」の「改定」を否定するかぎり、女王国は近畿ではなく、九州に存在すると思われる。
(2)そうなれば、「陸行一月」は、九州内部に求めがたい数値となる。

しかし、「南を東に」の「改定」を否定しても、女王国は近畿に存在することを証明するA説がある。A説から見れば、古田氏と著者の説は、「陸行一月」が九州内部に求めがたいので、無理に韓地に求める説ということになる。

(九)
 著者は、韓の地は「方四千里」であったと明記されている。韓地の西岸と「倭地」である半島南岸を、「全水行」すれば、「八千里」となってしまい、「帯方郡治-狗邪韓国」間七千余里を越えることとなって、矛盾が生じることとなる(68~69頁)という。韓地の西岸で四千里、半島南岸で四千里、合わせて八千里となると言っている。なので、陸行したのだと言う。
 しかし、それは狗邪韓国が半島の南東の隅に在ると前提してのことである。魏の使節は狗邪韓国が南岸を四分の三ほど行った所に在ると考えていたとすれば矛盾は解消する。
四千+三千=七千
 実際の地図でも韓半島の南部に在る東端は、狗邪韓国が在ったと考えられる釜山市にはなく、浦項市の虎尾串である。
 また、A説では半島南岸は倭地ではない。
 著者は、魏使は、どうして「韓国内陸行」を敢行したのか。その真意は、当時の国際情勢──覇権をめぐって激しく争う魏・蜀・呉の中国三国の動向と、その動向の周辺地域、朝鮮半島への影響などと無縁ではない。東アジア全体が動乱の坩堝と化していた時代である(69頁)という。
 しかし、東アジア全体が動乱の坩堝と化していた時代ならば、安全な水行をしたと解するのが自然である。

 古田武彦氏の指摘したとおり、魏志倭人伝には「邪馬臺国」という国名は存在していない。女王卑弥呼のいた国が「邪馬臺国」だ、とは一切書いておらず、「邪馬壹国」と書いてある。魏志倭人伝には「会稽東冶」とは書いておらず、「会稽東治」と書いてある。魏志倭人伝には「景初三年」とは書いておらず、「景初二年」と書いてある。魏志倭人伝には「対海国」「一大国」と書いてあるのに、後代に「対馬国」「一支国」へと改定されており、この後代の改定には史料批判上の根拠が無く、「対海国」「一大国」が正しい。これらの古田武彦氏の指摘は正しい。
 しかし、これらを前提として、邪馬壹国が筑紫に在ったとするのは間違っている。これらを前提としても、邪馬壹国が大和国であったとすることができ、それが正答である。
「邪馬台国」は三世紀初頭に日本列島に在った倭の国々の宗主国となり、魏の時代に「邪馬壹国」に改名した。
 魏志倭人伝が記す狗奴国との争いは魏からの要求を断るために持ち出された言い訳に過ぎず、狗奴国とは小規模な紛争に留まり、終始、邪馬台国の方が優位だった。魏志倭人伝と記紀の解釈によればこうなるし、邪馬台国の時代は神話の時代でもない。
 「邪馬台国」論争は確実に終結する。しかし、著者の望む形で終結することはない。



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